日本とロシアの領土争いの狭間で
1800(寛政12)年、近藤重蔵の一行が小舟で択捉に渡り、その地に「大日本恵登呂府」と書いた柱を建てた。隣の得撫島にはロシア人が住んでいたので、択捉島を日本の最北端の領土としたのである。
その前年には、国後島に南部藩の警備部隊が詰め、択捉島には南部藩と津軽藩の勤番所が設置されている。
駐屯費用は南部藩だけで年間 1 万 4,000 両。米価換算で12億円以上になる。それに酷寒で病死者も続出したという。
この多大な犠牲を払って、これより択捉島以南、樺太南部が日本の領土とされた。
一帯は日本の商人によって漁場が開かれ、地元のアイヌと交易しながらの生活が始まったが、その地の生活ぶりはどうだったか?
幕末に北方一帯を旅した松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』は択捉島について、こう証言する。
「日本の悪徳商人によってアイヌたちは昼夜の別なく酷使された。夫たちが仕事に出た後は、妻や娘たちが乱暴された。これを嫌がる者があれば氷雪の山に追いやるか、荒れ狂う海に船を出させて殺した。女は妊娠しても流産し、男は病にかかるとすぐ死んだ」
日本の商人もロシアの毛皮商人と変わらず暴虐だった。わずか30年で択捉島のアイヌ人口は 2,000 人から 439 人に激減したという。
領土争いでいつも被害者となるのは、そこに生活する人々である。
恐露病のもとを作った間宮林蔵
最初の北方領土紛争は 1806(文化3)年、ロシアの樺太南部襲撃で始まった。ロシアの海軍士官フヴォストフ中尉率いる船が、樺太のクシュンコタンを襲い、放火と掠奪をし、その翌年の4月には択捉島に来襲した。
このときの交戦の模様は南部藩士木村治五平が『私残記』に詳細に記録している。
択捉島のシャナに2隻の船でやってきたフヴォストフの部隊は、まず艦砲射撃を加えた。迎え撃つのは幕吏戸田又太夫以下の南部・津軽両藩の部隊。すでに樺太襲撃の報を受けているので、南部・津軽両藩士は、さっそく攻撃をしようとするが、その場に居合わせた間宮林蔵がおしとどめた。
ご存知、樺太を単独で探検し、間宮海峡を発見したあの間宮林蔵である。
間宮によれば、
「ロシア側の大砲は上陸する際の礼法でござる」
で、間宮の指示で白旗を揚げた使者が海岸に向かって歩いたが、使者はロシア兵の銃弾に内股を射抜かれてもんどりうった。それを見た日本の武士は蜘蛛の子を散らすように逃げた。完敗である。
「間宮殿が知ったかぶりの無駄口をいわなければ、水際でロシア人を攻撃して、追い返せたのに!」
と木村治五平は悔しそうに書く。
上陸してきたロシア人は20名程度、迎え撃つ日本側は 100 人以上だったから、間宮林蔵の知ったかぶりで出端を挫かれなければ撃退も可能だったかも知れない。以後、フヴォストフの一隊は1か月半も周辺を遊弋(ゆうよく)して、掠奪の限りを尽くした。
歴史家は、この敗退が日本人の恐露病形成に大きな影響を与えたという。すると英雄・間宮林蔵は、その軽口で恐露病を生み出した人ということになるのである。
*本記事に掲載している択捉島の画像は、「露天風呂マニアの温泉探索記」さまのご厚意により使用させていただいております。
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