近世の城下町、「河内」「仙台」「高知」「広島」 の共通点とは?
ここに列挙した地名のどこに共通点があるのか、不思議に思うかもしれない。一言でいえば、すべて「低地帯」で、川の反乱や浸水の可能性が高い地名である。
もっともわかりやすいのが大阪の「河内」。その名の通り、川のなかにできた中州で、川が氾濫すると川の内になるので河内という。これを川内と書いて、漢字の音読みをすればセンダイとなり、「千代」の字を当てた千代城があった。その字を「仙台」に変えたのが東北最大の雄藩、伊達家の仙台青葉城。これも広瀬川の中州にできた城で、その城下町のなかには今でも古い川内町の地名を残している。広瀬川は複雑に蛇行しているので、城下町は氾濫で浸水しやすい。
土佐の「高知」も同じことで、もとは河内(こうち)や河中(こうち)と書いた。城下の鏡川や久万川が氾濫すれば川のなかになるという意味である。それを山内一豊公が高智と改め、今は高知と書く。
とにかく、洪水で川の内になることを意味する地名は他に、川之内、河之内、磯河内、大河内、百川内(ももがわうち)などがあり、こういう地名の場所に住むときはボートの一つも用意しておく必要があるかもしれない。
しかし、「広島」は河内系とちがって広い島で、水害には無縁のように思われる。ところが「ヒロ」という言葉は、古語で「低い」という意味がある。広島県広島市は、安芸毛利家の城下町となったが、もとは毛利元就が五個荘といっていた地に元就の孫の輝元(てるもと)が築城し、広島と改名した。太田川河口にできたデルタ地帯で、城の付近は幅1.6キロほどしかない。広い島というよりは古語の「ヒロイ」で、土地が低い島に該当する。
その典型が徳島県板野郡松茂町「広島」。旧吉野川と今切川にはさまれた土地幅百数十メートルの狭隘(きょうあい)な低地で、およそ広いとはいえない。低い土地の広島なので、浸水被害にもあっている。広のつく地名には、広岡・広田・広井などがあるが、そうした地名で浸水被害にあっている土地は多い。すべて低いの意味の「ヒロ」である。
実は失業対策?城下町が低地に形成されるようになった理由
それはともかく、天下統一とともに城は山城から平城(ひらじろ)に下りる。毛利家も元就の代まで二百数十年にわたって広島の北東約40キロの山間部の吉田の山城である郡山城を拠点にしていたが、輝元の代にそこを下りて広島に築城した。
平城とは、高低差のない平地に築城された城のことで、近世の城下町はすべて平城である。そのほとんどが川のデルタ地帯なので、城下町は冠水や浸水被害の起きやすい場所に形成された。
それが戦国時代の防衛だけを考えた山城と、近世の平城の違いだが、その理由はどこにあったのか。
むろん、答えは簡単である。川の水運を使った大量流通ルートを確保することにある。一例をあげれば、馬1頭で運べる荷物は米2俵にすぎないが、船なら平底の川船でさえ1艘で25俵は積載できた。それが千石船ともなれば何をかいわんやである。
もう一つ、天下統一とともに平城ブームが起きたのは、戦乱で荒らされた土地の農民や負けた大名の家臣たちの失業対策事業でもあった。慶長6年(1601)から元和9年(1623)までの22年間で御所を含めて46もの城が作られている。
大名たちは自家の築城のみでなく、幕府の伏見城拡張や淀城、名古屋城、江戸城の工事のたびにお手伝い普請を命じられている。そのたびに細川家の場合、延べ23万人程度の土方を雇った。もとより土方といっても前出の元武士や潰れ農民と思われる。全大名が雇った人数となると莫大な数になる。
全国の平城の誕生は、天下統一でのリストラと、それにともなうセーフティネットでもあった。
「芝」「増上寺」「高輪」…地名に見る氾濫被害の名残
ところで、近世の城は平城になったおかげで、新たに町割りをした城下町はともかく、その外周には川による浸水被害や氾濫被害を示す地名が各地に残った。
天下の総城下町と呼ばれる江戸でさえそうで、たとえば浄土宗総本山で将軍家の廟があることで知られる芝の「増上寺」(東京都港区)、その南の「高輪」(同)などがそれである。
「芝」や「柴」の地名は、一般に芝か柴のある所ということになっている。ところが、昔から今日まで、川が運んでくる肥沃な土、木の葉が腐食した土をシバツチと呼ぶ。なかでも川が運んだ肥沃な土の堆積物をシバまたはシボーという。
増上寺の芝も、徳川家康が江戸に入るはるか以前に、付近を流れる川の乱流などで堆積物が生み出した土地と思われる。
河川に関係する浸水被害にかかわる地名は、他にシバ、シボー、芝生・柴谷・芝原・柴内・芝坂等がある。
同じく高輪の地名も、かつて江戸以前の江戸に、どれほど川が乱流していたかを記憶に残す地名と思われる。戦国時代の大永4年(1524)1月に、
「北条氏綱と扇ヶ谷上杉朝興が品川の前、高輪の原で戦した」
という記録がある。古い諸記録の中には「高輪」とか「高鼻和」と書いているものもあって「タカハナワ」というのが古い呼称ならば、そこは川の両岸に沿って一段高くなって、しかも平らな場所を示す。
ハナワとは、ハナ(端)のワ(輪)で、土地のハナ(先端)堤防上の台地を指す。江戸時代の国学者で知られる塙保己一(はなわほきいち)(延享3~文政4年/1746~1821)も武蔵児玉郡のそのような場所に住んでいたので、塙を名乗った。本名は荻野である。
土地の崩壊に悩まされ続けた麻布の「ゴミ坂」
また、麻布には「ゴミ坂」があった。麻布三軒家町と日下窪町を結ぶ坂(現・港区西麻布三丁目と南麻布五丁目の境)で、地元の伝承では「近辺から塵芥(ゴミ)を掃き捨てたから」というが、これもかつて付近の台地から流れる川が吐き出した泥でできたとも考えられる。谷川の吐き出す泥のことをゴミといって、粒子の細かい砂などは、ゴミ砂と呼ぶ。今も麻布は三田の台地とつながっているが、この台地から流れ出る川によって堆積した泥の坂こそゴミ坂の語源かもしれない。
ゴミの名は各地にあって、「五味」「五毛」「五妙」等と書く。付近に川があるのが特徴で、その川が山から運んだ泥水(ゴミ土)の堆積地である。こういう地名はゴミ土が土地の下に挟まれていることが多く、河川護岸の基礎の根入れは、常識よりもはるかに深く根入れしなければならない。護岸災害が多いのも五味河川の特徴である。
おそらくシバやゴミ坂付近の江戸っ子も、土地の崩壊に悩まされたにちがいない。
とはいえ、日本の弥生時代、つまり水田農耕の始まりのときは、川の氾濫を利用して水田を作りはじめたのだから、そういう災害の多い土地ほど古代には水田に適していたともいえる。水害は付き合い方しだいで防ぐことも、対策も立てられる。そのためにも危険地帯を伝える地名は重要なものである。
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