骨董屋の親父の“趣味の園芸”から始まった江戸のサロン
「向島花屋敷」はいまも「向島百花園」の名で健在だが、江戸文人の抵抗精神の横溢した「花屋敷」という名前を返上したのは残念な限り。「屋敷」という呼称は武家以外には使用を禁じられていたからである。
それを文人たちが一株株主になって樹木を植えて、コッソリと「花屋敷」の名をつけてのけた。
もともと開園者は仙台出身の平八という男で、天明年間(1781~1789)江戸に出て、10年かけて蓄財し、骨董店をひらき北野屋平兵衛と名乗り、世間は北平と呼んだ。
北平は文才があり、大田南畝(蜀山人)、寛政異学の禁で弾圧された儒者・亀田鵬斎(ほうさい)、国学者の双璧といわれる村田春斎と加藤千蔭(ちかげ)、漢詩人にして秋田藩日知館教授の大窪詩仏(しぶつ)、姫路藩主の次男にして画家の酒井抱一(ほういつ)や谷文晁、茶道の江戸千家家元・川上不白(ふはく)等々、当代一流の文化人に愛された。
諸大名や旗本屋敷にも出入りしたが、大名のご機嫌取りのような俗気のあることは一切しない。ひたすら貧乏な学者、詩人や歌人と語ることを好んだ。
それが高じて商売が嫌になり、骨董屋は廃業。剃髪して菊屋宇兵衛と改名し、これをつめて菊宇から帰空、そして鞠塢(きくう)の号をひねり出した。
その鞠塢が文化元年(1804)、葛西領寺島村の旗本多賀氏の陣屋3,000坪を買い取って園芸を始めた。そこが現在の向島百花園で、当時と地形はまったく同じだが、周囲をぐるりと廻っていた塀は埋めたてられて道路になっている。
園内の池はいまも東側に3つしかないが、もともとは現在建物がある部分に東西に長い池があって、北東隅の池とつながっていた。
鞠塢は自ら鍬をとって園内を耕すとともに、親交のある文人墨客に、梅の樹一株ずつの寄進を求めたら、たちまち前記の大田蜀山人などの文人のほか、国学者で狂歌の「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」で知られる石川雅望(まさもち)、狂歌作者の雄「鹿都部真顔(しかつべのまがお)」別号「恋川春町」こと北川嘉兵衛など、当世の名だたる文人から360余株を得た。
鞠塢の面目躍如たるものがある。
園主そっちのけで「そこはいかん」「ここがいい」
この梅を植える段になって、鵬斎、千蔭、蜀山人などの常連が毎日押し掛け、
「そこはいかん」
「ここがいい」
「ここではイカン」
「あそこがイイ」
と甲論乙駁、園主の鞠塢の意見などまったく無視してケンケンゴウゴウ。そのたびに鞠塢は鍬を担いで右往左往。あっちに穴を掘ったり、こっちは埋めたりで、360余株を植えるのに1か月もかかってしまった。
これに懲りた鞠塢は、今度は公募ではなく自前で、萩、桔梗、尾花、刈萱などの秋草を植えて、その間に紆余曲折する通路を配した。
するとまた蜀山人など例の梅一株連がよってたかって、秋草の配置にも各自自説を固守して議論窮まるところがない。
鞠塢はほとほともてあまして苦言でも呈すると、「なら梅を抜くぞ」「おお抜くぞ」「抜いちゃうぞ」と始末におえない。花を盗まれないように通路に四目垣か柴垣を結ぼうとすると、例の一株連が、
「垣を結ぶ? はて? それこそ不風流きわまる」
と衆口一致して鞠塢の原案を否決、よって、
「盗まれても構わん」
これには鞠塢も唖然として二の句が継げない。
梅一株主連は自分たちの百花園だと思ってるから、薮から竹を伐ってきて、それに荒縄を結んで垣とする提案をし、こちらは拍手で迎えられた。
いくら何でも荒縄では…せめて棕櫚でも編んで、と鞠塢がいうと、
「荒縄に限る。荒縄でなければ、我らの寄付した梅を抜いて持ち帰る」
と例の「抜くぞ、抜くぞ」の威嚇で、鞠塢は開いた口がふさがらない。
幕府を怒らせるほど辛辣な狂歌を作った大田蜀山人や図抜けた学者たちだから、桁違いな美意識の持ち主ばかりで、鞠塢の百花園は乗っ取られた態である。
蜀山人がこっそりとつけた名は恐れ多くも「花屋敷」
やっと庭が完成すると、さあ例の常連たちは大喜びで、別荘ができたように心得て、連日百花園に集合し、朝から晩まで無用の閑談をし、無用の詩文をひねり出し、鞠塢にああしろこうしろと指図し、それで入園料も支払わず、無料で茶など所望する。
ただし、各自得意の看板や飾りを作り、なかでも大田蜀山人は大胆にも「花屋敷」という園名をつけた。前述のとおり、「屋敷」の文字は幕府に睨まれるのをごまかすため「花屋」とまで楷書で書いて、「敷」の字は法にもない草書の崩し字でニョロニョロとごまかした。
したがって一株主連の人でなければ、「花屋ニョロリ」としか読めない。
才人が集まり知恵を絞っただけあって、名物の「隅田川焼き」も作り、その原料が川のヘドロであることに妙な理屈をひねり出し、
「陶器たるもの山の土で作るが、隅田川焼きは川の土を作るをもって一大特色となす。その川の土には、都鳥の糞もあれば、桜の匂いも染み込んでいるところがお慰み」
と一大特色に仕立て上げてしまう。
かくて11代将軍・家斉公も、12代将軍も御成りになるほど江戸で有名になった。その折将軍が、「花屋ニョロリ」の園名の文字に首を傾げたかどうかは知らない。
鞠塢は天保2年(1831)8月、秋草の咲く頃、
「隅田川梅のもとにて我死なば 春咲く花の肥料ともなれ」
と園芸好きらしい打算的な辞世を残して、70歳をもって玉楼堂中の人となった。
百花園こそ、爛熟した江戸文化のなかで、江戸文人たちがすこぶる教養の虚栄心を満足させて作り上げた数少ない自前のサロンである。
同時代のヨーロッパと違うところは、そこに地位と教養ある女主人がいなく、鞠塢という庭師みたいな教養ある爺さんしかいなかったことぐらいだろう。
もっとも、その差が50年後には、決定的な人文諸科学と科学技術の差となってあらわれる。
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