願いごとを書いた短冊を笹の葉にぶら下げるのはどうして?
7月7日は七夕の日。天の川に隔てられた牽牛と織女が、年に1度、この夜にだけ逢うことができるといわれているが、悲恋物語のお約束というか、梅雨まっただ中の日本の空はあいにくの雨模様のことが多い。
それはさておき、ロマンチックな恋物語の日に、なぜ、願いごとを書いた短冊を笹の葉に吊り下げるのか?
そもそも七夕(七夕祭り)は、中国の牽牛星と織女星の話に由来する。その中国の話からして古代西アジアの神話から生まれたもの。源流は古代エジプトにまでさかのぼり、定住農耕が生み出した神話が、七夕の原点である。
古代イランのゾロアスター教の聖典『アヴェースター』の中に、この世とあの世の境の川に架かる橋に、技芸巧みな乙女が2匹の犬と幼児を連れて現れる。後の時代になると原牛が登場する。
これが中国で牽牛と織女の話になり、おそらく日本で棚織津女の物語になったのだろう。中国の織女も棚織津女も、『アヴェースター』の乙女と同様技芸巧みである。
七夕を中国では「巧日(チャオリー/器用な日)」「七巧節(チーチャオチェ/巧みになる節供)と呼ぶ。古来より女の子の祭の日とされ、技芸上達の願いごとをした。その行事は奈良時代に日本の宮廷へ伝えらたが、それ以前にも別のルートで伝えられて、棚織津女の行事となっていたものと思われる。
江戸時代になると、大奥でも笹の葉に短冊をぶら下げ、願いごとをした。この形式が現在でも一般的な祭り方になっている。
七夕伝説が教える古代の盛んな異文化交流
日本の棚織津女伝説とは、機織津姫が村を災厄から救うため機屋に籠もり、天から降りてくる疫神の一夜妻となり、災厄から逃れたというもの。疫神を牛頭天王とすれば、牽牛と織女の年に一夜のみの逢瀬と変わらない。
おもしろいことに、七夕祭りの習慣は、日本国内各地で微妙に違う。これは牽牛と織女の伝説がユーラシア大陸全体に広がっていることと関係する。
七夕祭りは、牛を使い、機織りをする古代農耕文明が生み出した神話だ。古代ローマの7月7日は「山羊の日」で、男女が石を投げ合って遊ぶが、男女の石投げには求婚の意味もある。形式は変わっても、七夕祭りはユーラシア大陸の西と東に広がっている。
日本の七夕祭が多様なのは、牽牛・織女の伝説の伝播経路が複数あったことを今に伝えている。東南アジア、中国の南と北、朝鮮半島と様々なルートで文化が交流していた。
ところで、七夕の夜、牽牛と織女は一夜の逢瀬をするが、その結果が忘れられている。年に1度の七夕の逢瀬は、9か月後の翌年4月8日の花祭に結実する。
花祭とは、御存じお釈迦様の誕生日である。
東京・入谷の鬼子母神の朝顔市が七夕の時期にある理由
牽牛と織女の子供が釈迦牟尼とは、仏典にも書いていないが、それは、牽牛・織女の伝説が、仏典よりも古い時代からある神話だからであろう。
それでも両者(七夕とお釈迦様の誕生日)の関係を古代日本人は意識していたようだ。
『日本書紀』には、推古天皇の時代、寺ごとに7月15日と4月8日に「設斎す」とある。「設斎」とは祭祀をすること。7世紀初頭の仏教では、7月の七夕と4月8日のお釈迦様の誕生が関係していることを意識していたようだ。
中国の4月8日は鬼子母神の祭りだが、仏教の意味づけと違って、鬼子母神は子授けの女神である。この鬼子母神を東京・入谷では七夕の頃に朝顔市とともに盛大に祭る。
私たちが忘れているだけで、七夕と4月8日は、深く結びついているのである。
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