最初に暮らしていたのはアイヌ民族
1643年、オランダのド・フリーズを船長とする東インド会社探検船が国後島、択捉島、得撫(うるっぷ)島を発見した。ときに徳川3代将軍家光の時代。このときフリースは得撫島に上陸して領有を宣言し、コンパニーランド(会社の島)と命名した。
この歴史的事実を尊重すれば、オランダ人も「返せ!北方領土」である。
その6年後、ロシアのコサック太平洋遠征隊が、千島を発見した。
日本人も千島列島を知らなかったわけではない。それは松前藩が幕府に差し出した地図に、「くなしり(国後)」、「えとろほ(択捉)」、「うるふ(得撫)」など千島列島の名が記されていたことからもわかる。
北方領土はもともとオランダのものなのか、ロシアか、それとも日本のものなのか?
正解はどれでもない。千島列島の千島という名はアイヌ語のチェプカに由来する。ロシア語の呼び名クリルもアイヌ語の「人間」から派生している。
その地には数千年前から千島アイヌが、漁撈をしながら、毛皮を周辺民族と交易して生活していた。
北方領土を発見したのはアイヌ民族で、領有権は彼らのものだったのである。
ロシア人の南下を警戒し、田沼意次が北方に調査隊を派遣
千島列島や樺太の領有権争いが日露の間で始まるのは、江戸時代も後期。ロシア人が毛皮を求めてカムチャツカ半島から千島列島を南下してからである。
1761(宝暦3)年、ロシアのチョヌルイは、アイヌ人が捕獲したラッコなどの毛皮を武力で奪い、得撫島の女性たちを掠奪してハレムまで作った。毛皮を求めてロシア人が進出したカムチャツカ周辺では、19 世紀の間に原住民が 2 万人から 1,500 人に激減したというから、その激減ぶりは想像を絶する。
こうしたロシア人の千島列島南下を深刻に受け止めたのは老中・田沼意次である。1784(天明5)年、初の調査隊を北方に送り込んだ。
賄賂の問屋などといわれ評判の悪い田沼だが、外交問題には先見の明のある有能な政治家だった。
調査隊の使命は、ロシア人の占領している島に最も近い島まで行くことで、一行中の最上徳内は国後島、択捉島を経て得撫島に渡り、そこにロシア人居住地を発見。これを皮切りに日本の北方領土への進出が始まる。
- ▼「今週の話材」
-
- 今週の話材「定年」… 江戸幕府にはなかった! 定年制はいつから、どうしてできたのか?
- 今週の話材「花屋敷」… 大田蜀山人ら当代一流の江戸文人たちが集った「向島花屋敷」異聞
- 今週の話材「招き猫」… 福運を招く「招き猫」には、なぜ右手を上げる説と左手を上げる説があるの?
- 今週の話材「大晦日」… いつから日本人は大晦日に年越しそばを食べ、除夜の鐘を打つようになったのか?
- 今週の話材「インチキ宗教」… 金だけでなく命までも!インチキ宗教の神仏をも恐れぬ手口
- 今週の話材「ウーマンパワー」… 将軍でさえ敬語を使った? 江戸城の大奥「老女」たちの権力と財力
- 今週の話材「お酉様」… 酉の市で縁起物の熊手を買うと三本締めをするのには理由がある
- 今週の話材「登山」… 君子危うきに近寄らず! 知っておきたい山のなかの「危険な地名」
- 今週の話材「世界遺産」… 世界遺産・姫路城の天守閣を23円50銭で売り飛ばした維新政府
- 今週の話材「大仏」… じつは江戸にもあった!? 日本一巨大な「江戸の大仏」の正体